「公助」は辞書になし(中)。「自助努力」では個人の能力を発揮しない
さて、菅義偉総理大臣が言うように、「社会の基本にあるのは自助だ」というのは本当でしょうか。さらにいえば、自己責任が社会の基本なのでしょうか。
それにはNoと言いたいと思います。
そもそも人類の起源と進化をたどってみるとわかりやすいと思います。
ヒトは、獣の急襲から逃げたり反撃するにも、また逃げ足の早い獲物を捕獲するにも、あまりに筋力が不足しています。それを補うには、「集団力」を高める必要がありました。個々の人が役割を分担し、知識の集約や継承・伝承が行われます。体毛がなくなり発汗で冷却効果を高め、長距離走では他の動物にない有利な身体特徴が生まれ、協力共同の狩猟になります。言語は狩猟採集の際のコミュニケーションをとる不可欠の要素になります。こうやって集団になることで、個人の能力を大きく超える集団力=生存力を強めたのです。
もし統率がとれず、個々人の能力が十分発揮されなければ、その集団は衰退し滅びる運命だったでしょう。20〜30万年という長い長い歴史を経て、今日まで子孫をつないできたホモ・サピエンス社会の本質は、まさに群れとしての力、「集団力」にあると思います。
当たり前のことですが、個々には知力、体力、コミュニケーション能力等々がバラバラですし、先天的に障害を持っていたり、事故で後天的に障害をもった個人が必ず存在したりします。ハンディキャップを持った人たちは、精一杯のことをやったとしてもその社会の平均的な成果・生産をあげられなかったことは明瞭です。しかし、その人たちの分け前は他の人より少なかったり、他の人に比べて低い扱いを受けていたりしたかといえばそうではありません。なぜなら、一方では平均的能力を超えた人々の高い生産力、より大きな成果があったはずですから、その収穫が社会全体の収穫として位置付けられ、すべての構成員一人ひとりに必要な分け前(食料等)が配分されていたのです。今の言葉では、応能負担と必要最低限の生活保障ということになるでしょう。
ある人が多くの分け前(食料、富)をもらったとしても消費できないので意味がないし、分け前が過少だった人は栄養状態が悪くいっそう能力を低下させ、場合によっては死ぬことになります。配分を能力に応じて不平等にすれば、結果的にその社会(集団)そのものが存立できなくなるのです。【能力が高い人がたくさん受け取り、能力が低い人は受け取りが少なかった(つまり、生活物資の確保は自己責任)】という言説は、人間社会の成立過程を考えると、それは当てはまらないのです。
太古の社会では、「同じ仲間だ」「ヒトだ」というその一点においてのみ、生存条件が保障されていたと考えられます。個々の能力は社会の中で発揮され、社会集団は個人の存在と能力に応じた力の発揮を前提に、その生存を保障するのです。「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」社会では、社会への強い帰属意識が生まれたことでしょう。
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