2020年9月26日

「公助」は辞書になし(上)。国の責任放棄、自己責任押しつけの呪いの言葉

投稿者: hi_sakamoto

菅首相は、自身のめざす社会像を「自助・共助・公助、そして絆」だとしています。何だか美しく感じてしまう言葉ですが、本当のところはどうなんでしょう。

先に結論をいいますと、以下のようになります。

【自助】何か困ったことがあれば、まずは自分で何とかしてください。それが人の常識です。

【共助】それが無理なら、家族や地域で支えあって下さい。それが社会の常識です。

【公助】それが無理なら、国が手を差し伸べます。ちゃんと基準以上の努力をしてない場合は無理ですがね。

【絆】国の援助がいつかはあるだろうと安易に考えると、努力をしない奴が出てくるのです。それを許せば社会は成り立たないじゃないですか。だから、そもそも援助がないことを前提に、できる限り個人と家族・地域が頑張るのが基本になるんです。国に頼らず頑張って社会を成り立たせようとする個々人の努力、素晴らしいじゃないですか。こうやってみんなが支え合う「絆」で結ばれた社会こそ理想的な強い社会であり、また、日本の伝統ですよ。

菅さんや与党政治家がこんな本音をあからさまに語ることはないと思いますが、世間ではそういう会話がそこら中にあふれています。行政の生活保護窓口ではまさにその精神で申請をできるだけ受理しないように実践されているのが現実で、担当職員だってそんな言葉を使う場合が度々みられまます。

「自助・共助・公助」言説が蔓延すると、誰も助けてくれないのだから「必死で頑張るしかない」という強迫観念に追い詰められます。崖っぷちまで人々が追いつめられていても、それは自分の責任と思わされる「呪いの言葉」(上西充子氏、法政大教授)です。それは、国の(公の)仕事を放棄し、国民欺くための言葉だと思います。

「公助」という言葉を正確にするために、国語的な意味での「公助」を調べてみようと図書館へ行ってきました。(きっかけは、身近なある人がネットで「公助」を調べたのに、出てこないことを発見されたからです)

確かに、「公助」は国語辞典、広辞苑等々には掲載されていない。

だいたいこの語が使われ始めたのは2000年代に入ってから。小泉純一郎総理のもとで社会保障の「構造改革」が強行され、社会保障の削減へ大きく政策が転換しました。その指針となった起源は、1995年の「社会保障制度審議会勧告」です。つまり、すでに1990年代から、少子高齢化社会を見越して「持続的な社会保障」のためには、社会保障維持の国の公的責任を弱め、受益者負担を増やす=自己責任化を国づくりの大きな基本政策とするために、「自助、自立が基本」というイデオロギーが打ち出されたわけです。

その後、2006年には、「社会保障のあり方に関する懇談会」が報告をまとめ、あらためてそこで「自助・共助・公助」が定義されています。

繰り返しますが、

「公助」という言葉は、社会保障費の削減のための公的責任を放棄し、自己責任論を国民に押し付けるという文脈で生まれてきた、造語なのです。だから、辞書にはない。

「自助・共助・公助」が、日本社会の伝統的な素晴らしい「絆」を旨とする社会を表す言葉で、社会の普遍的あり方だといういのは、「まったくあたらない」のです。

【長くなったので、後半に分割します】

 

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